芸工大生のアイデンティティ

いまさらで申し訳ないけど書きます。

 つい最近、学生証を新しいものに更新したのだが、なんと九大の学生証になっていた。今までのぺらぺらしたチープな学生証とは違い、いかにもIDカードらしい硬質なプラスチック製の立派な学生証になっていた。しかも写真は入学当時の恥ずかしい写真(5年前の自分はさすがに若いっつーか青々してます)。これにはさすがに参った。しかし、九大生ぶるにはちょうどいい代物だ。大事にしよう。


前回のコメントを受けて

 芸工大生のアイデンティティ、それは、前回コメントをいただいたKID氏(なんとも皮肉なHN)の言うような気持ちの問題ではなく、というとまた語弊があるので気持ちに絡めて言い換えるが、それはモノに依存する気持ち、こと大学生であれば、自分はこの大学の生徒であるという気持ちは、例えば一般的に、自分は間違いなく男であるという確信の根拠を辿れば、結局は自分のおちんちんの存在確信に帰着するように、キャンパス(校舎)=モノによって支えられる。子供を亡くした母親は「母親」というアイデンティティを保てるであろうか。業績のない研究者は、自分のことを「研究者」だと言えるのであろうか。精神とは斯く虚ろなものであり、あらゆる場面で確たる支柱には成り得ない。むしろ、──「精神的支柱」という言葉が示唆しているように、これはごく当然のことではあるが──精神の方が何らかの支柱を必要とするものであり、その何らかの物質的な支柱の上にあって、初めてある“意志”が成立するはずである。唯物論とかなんとかそういう話ではなく。


芸情学生の自主制作映画を見て思ったこと

 少し前に、芸術情報設計学科の3年生たちが、芸工大生のアイデンティティを皮肉るような映画*1をつくっていたのを思い出した。まさにそういった感じで、現存の現役芸工大生は、個人差はあるかもしれないが、九州大学との合併によって、一種のアイデンティティクライシスに陥った。芸情の学生がああいう意図を持った映画を制作したのも、ごく自然なことに思える。映画というのは、どんなものでも、人々のもやもやした気持ちを映像として提示する装置であるからだ。だから、僕がわざわざこんな場所で言わずとも、あの映画を見た現役芸工大生は、何かしら自分達のアイデンティティについて、さらに踏み込んで考えざるを得なかっただろう。


いいわけさせてもらうと

 ついでに前回のいいわけをすると、僕が事を大げさに書くのは、事態をわかりやすく示すためだ。ネットでプライベートな日記をわざわざ公開するなんてのは、ある意味ひとつのショーであって冗談であって拡張現実だ。しかし、ショーや冗談といっても、そこで全くのウソを言っているつもりはない。あくまで僕の日記は、現実世界を基にした誇張劇だ。僕が、売店の『九大グッズ』は、あたかも植民地に軒並み並んだ、支配国の国旗のようであった。芸術工学部キャンパスに陳列された『九大グッズ』は、現地市民のナショナル・アイデンティティを蝕むそれと全く同質である。」と言ったとしても、これはウソじゃないからもちろん僕の本心を言い表していることに間違いない。同じ意味でも言い方は色々あるのだろうが、僕はたまたまこの表現手段をとったまでだ。意図としては、そのような(偏った…とは言っても自分としては“ごく真面目な冗談”つもりなのだが)見方も可能であるということを示してみたに過ぎない。しかし、これが悪意を持った文章と受け取られてしまうことは十分考えられることであったし、実際そうであったので、今でも反省している。いや、もしかすると僕は決して反省しちゃいけないのかもしれないけど。


九州大学はお嫌いですか?

 あのときもそうだったが、別に僕は九大が嫌いだとか、合併に今でも納得がいかないとかは全く思ってもいないし、もし自分が会議に参加していたとしても、賛成の方に票を入れていたことだろうと思う。と、さっきも同じようなことを言ったが、本人の口からそんなことを言ってしまっては、不特定多数へ向けた僕個人の日記、演出された作品としてお終いである。

*1:映画の概要:ある学生が、学科のプレゼンの日に寝坊して、慌てて学校にかけつけたものの、キャンパスには誰もいなかった。ラストでこの学生は、自分が九州大学芸術工学部キャンパスではなく、九州芸術工科大学芸術工学部キャンパスに来ていたことを悟り、彼の存在は消滅する。(おそらくオチが分からないであろう学外の人向けに言うと、単に名前が変わっただけで、今もキャンパスは同じ場所・同じ施設です)