日記についての日記

最近気付いたこと。

 日記って、私の軌跡の一部を後方から切り出して残していく感覚と、日記に残す為の私を前方に作り出していく感覚が両方ある。
 つけはじめた頃は前者なんだろうけど、日記をつけるのが習慣になってくると、日記のための自分を前に作っていく後者の感覚の方が、だんだん強くなってくる気がした。日記ってのは、つけた後で、過去の自分を振り返るためだって安易に思ってたけど、実はそれだけのもんでもなさそう。日記に限らず、思い出写真好きの人も、孫の姿をビデオにことごとく納める人も、はたまたプリクラギャルも同じく。写真に残すことに夢中で、一体旅行先で自分は何を見てきたのか、サッパリ頭には残ってないと言う観光客は悪い例になるけども、これって良い面もたくさんあると思う。あるべき自分作りの作業が、後に書かれる予定の仮想的な日記(記録)のイメージによって喚起されるってのは。「せっかく形に残すんだから、それなりのことをやろう」といくらか思えるだろう。

 これから記録されることをあらかじめ決めて行動するってのは、なんか“記録”の本来の意味が転倒してる感じでおもしろいなと思ってみたり。でも、「記録したい」という欲求だけが先走ってしまうと、これから記録する内容をどうするべきかと、これまた妙な悩みを抱えてしまうことになる。

 自分がまさにそう。だから書くことに迷って、結局こういうメタ日記みたいなことをよくやってしまう。日記だけの話じゃない。僕は、何かを(実体的なモノに限らず広い意味で)クリエイトしてゆく仕事に就きたいと思っているわけだけど、具体的な作りたい特定の何かがあるわけではない。だから、自分は一体何を作るべきだろうかと悩む。なんというか、これってモノ作りの姿勢として不純なんじゃないだろうか、自分は向いてないんじゃないかと、自責の念に嘖まれたりもする。映画を撮りたいから、これから構想を練る。いや違う、撮りたいモノがすでにそこにあるから、人は映画を撮るんじゃないんだろうか。

 しかし、正直なところ、これは少し美化しすぎだろう。あらゆる必要が満たされ、路頭に迷った“欲望を満たしたいという欲望”の行先案内も、いや、「も」というより現代的にそれこそ、イッツ・クリエイティブだろう。現に、「何かの日記を書きたい」という中身の伴わない形骸化した欲望が、何を残すべきか“悩む私”を生み出すことができた。そして今、“悩んだ私の痕跡”をここに残すことができた。うん満足。こういう感覚も、一種の「付加価値」かもしれない。

 記録と欲望。深夜に何を書いたのか自分でもよくわかりませんが、苦悩の痕ってことでお許しください。後で書き直すかも。