孑孑《ボウフラ》と選択バイアス

「あれ?最近タイトルに妙に力入ってるね。」
「でしょ。可能ならマグリットばりに凝ってみたい。」
「あと、対話形式の日記も多いね。」
「誰かに言わせてるみたいで、発言責任を感じないからね。オススメ。」
「てかこれ日記なの?」
「一応。でも日々の出来事を記すものではないかも。」
「日々たいした出来事もないしね。」
「それもある。いや、おおいにある。」
「今日はおしゃれなカフェに行きました〜みたいな日記は嫌いでしょ?」
「大嫌い。でもそういうのに憧れ半分、軽蔑半分。まあ、妬みかな。あ、それとこれは多少いいわけっぽくなるけど、僕が今みたいに『飾った』日記を書いてるのも、そういった類の日記を嘲笑する立場を取りつつ、実は自らがその軽蔑の対象へと同質化してゆくイロニー的過程を再現しているつもりなんだ。よくある芸術運動のまねごと、模倣さ。じゃあ、この過程を確率モデルとして表現することは可能だろうか?次に問題なのは、数学は『数学的説明』のみを要求される道具に過ぎないのかということだ。あ、いや、『過ぎない』という言葉は誤解を生みやすいな。こう言うと少しパラドキシカルだが、ある現象へ客観的説明を与えるに際して、『過ぎない』という表現は読者の正しい判断力を鈍らせるためのレトリックに過ぎない。」
「…なにそれ。」
「いや、思いつきで適当に喋ってみた。MCMC。」
「あ、そう。じゃあ逆に好きな日記は?」
「出来事の陳列でなく、それについて考えたことをちゃんと書いてる日記。」
「それを日記て言うんでしょ。」
「そっか。言われてみればたしかにそれが日記だ。」
「わざとらしい言い方。」
「いや、今のは言われて改めてそう思ったんだって。」
「またまた。」
「まあいいや。」
………
「猫の建築家は美について考える。美とはなんだろうか?形態とは?」
「あそこに古い建物がある。あれは美を持つから残されたのだろうか?」
「それとも残されたものが美であるのだろうか?」
「…L君の借りてきてた森博嗣の『猫の建築家』は良かったね。」

猫の建築家

猫の建築家

「うん、今回は僕も楽しめた。思索にふけりながら美を探してふらふらと歩き回る猫(architect)の世界にさっくり浸らせてくれる森氏の言葉と、なんてったって佐久間氏のあのやわらかくてあったかいような、無機物を有機的に見せてしまうような絵がいい。英訳を併記してあるのも売りかな。絵本ってすぐに読み終わるから、何度も繰り返し読みたくなるよね。」
「そういえばL君は『語彙』とかいう難しげな本も借りてたね。」
「そうそう。僕の予想だと、おそらく彼は本を借りるとき、タイトルに何らかのインスピレーションを得てはじめて、本を手に取っているのだろう。どうやらそんな気がしてならないよ。」
「あ、そっか。今日のテーマは『タイトル』。」