貴族になりたい

そう、僕は貴族になりたい。なんでか知らないけど貴族になりたい。貴族みたいな優雅な生活に憧れてるのか、単に仕事につきたくないピーターパンシンドロームみたいなものか分からないけども無性に貴族になりたい。生活の心配なんてせずに、毎日、書や芸事や夜這いに耽りたい。正直、平安時代ならモテたと思う。

僕のこの言い知れぬ欲望の出所を説明できる可能性のある唯一の仮説として、これは母から聞いたのだが、うちは、かの有名な句「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んだ、藤原道長の血筋なのだというなんとも嘘くさい話がある。いわれてみればたしかに、自分の名前には満月の「満」の字が入っているし、小学生の頃文集に載せた将来の夢は「世界征服」だった。こんな風に、自分は道長の生まれ変わりだと思いこんでみれば、ますますまんざらでもない気分だ。しかも、生まれ変わってみたら太宰府の近くに住んでたなんて、まあなんてよくできた皮肉じゃないか。

と、さっきまで昔の自分の日記を読み返しながら、太宰の『斜陽』を思い出し、また貴族になりたい願望がふつふつとよみがえってきたのである。もうなんてったって「キゾク」って言葉の響きからしてゾクゾクする。たとえば、うちの学校によくいるかどうかは知らないが、「デザイナー」という理念も思想も使命も何もかんもすっぽかして、ただその肩書き、ただそれを名乗ることに憧れるような、何もかんもすっからかんの連中*1と同じくして、僕は「貴族」の内実以上にその名前に猛烈に惹かれている。貴賊、帰属、木族。そう、僕は木になりたい。

木になりたいといえば、以前、高校の国語の先生が「生まれ変わったら木になりたい」とかよく言っていた。それから国語といえば志賀直哉の『城崎にて』をなぜかいつも思い出してしまう。行ったこともないくせに、城崎のいきものたちの光景が目の裏にありありと浮かんでくる。志賀直哉といえば、『小僧の神様』の後日談を読んでしまって萎えたことも思い出す。こうやって連想ゲームで不時着して幕を閉じるカオスな日記もたまにはいいかもしれない。カオスといえば、藤枝研の某W君に誘われていた藤枝守先生の「カオストーク」。今回もやっぱり行っておくべきだったかなと、mixiのなにやら満足げな人達の書き込みを見ていまさらちょっと後悔。後悔とは、他人に対してこのようにひけらかすためのものである。はい。で、今日はおわり。

*1:あいかわらず口が悪いですね。ちなみに現場の人から聞いた話ですが、たとえば面倒な事務作業の仕事の人員を募集する際、「デザイナー(またはクリエイター)募集」という甘い言葉を添えるだけで、おもしろいように人が集まるそうです。格好のつく肩書きの募集要項には皆さん気をつけましょう。