私的なweb空間について

 つまるところ、10月1日は、なんてことない平凡な一日だったわけだ。よくよく考えてみると、僕は今までに、事件(何か突出した事例)的なことを日記にしたことがない。平凡な一日の中で、僕の思ったこと、感じたことを、無駄に長い文章にまとめる。そこには多少の脚色はあるかもしれないけど、ごく平凡な一日だ。なぜだろう。感受性不足なんだろうか。本当に平凡で平和な毎日なんだろうか。親の失職、留年やらと、決して世間的には平凡で平和な状況にあるとは言えないのだが。

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(中盤を一時凍結中)

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 本当に素敵で、誰しも羨むような生活を“自然に”送っている人も、中には実際いると思う。しかし、そんな人間なんてごく一部で、大半の人達は、表皮を人の目にはステキに映る色彩で彩り、その代わり、内側にあって見えない別の何かを犠牲とし、養分にしているのではないだろうか。それは──「お洒落は我慢よ!」(ピーコ)という有名な言葉に象徴されるように──健康であったり、人間関係であったり。

 彼らは、幸せのシンボルを纏うためにその身を削る。僕は、これが悪いと言っているわけじゃないし、むしろ、お洒落の為に薄着して風邪をひくことも、一つの誇るべき美徳だと思う。なにより自分こそ、その手の最たる……。

mixiについて

 最近は、mixiを見ていると、この思いが日に日に強まる。だからこそ、あえてカッコワルイことを承知で書いてみたくなった。

mixiは、“私”を飾るための場所、統合的な【私の展示空間】*1である。

 mixiは、“私”の趣味嗜好、人となりを、登録しているコミュニティやマイミクシィ、写真付きの日記を通し、それらの記号を、他者に向けて示すためのツールだ。さらに、足跡システムによって、他人の目(見られている私)をユーザーに強く意識させる。“私”は、自分の日記に対するコメントを見て、思い描いていた自己のイメージを再確認する。このようにしてmixiは、消費社会的な性質を、より一層ますます強められてゆくことになる。またここで、“埋もれない私”を維持するため、コミュニティ全体にサブカル色が強くなるのも当然の傾向だろう。

 mixi開発スタッフはきっと、こういった現代人の特質を見越して、ああいったシステム設計を行ったのかもしれない。mixiは、現代の日本の社会に、恐ろしいほどまるでピッタリと符合する。だからmixiは、最も先進的で、それゆえ、かえって露骨で皮肉めいたコミュニケーションツールだと僕は思う。

*1:「アジアの美術」の日記でも軽く触れたけど、“展示”という概念はなかなか興味深いものかもしれない。簡単に調べてみると、“展示”という行為について論じた著作も多そうだ。